2021年12月31日金曜日

2021年 まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう

 2021年発表したレクチャーパフォーマンス『ダンスハ體育ナリ?其ノ三 2021年 踊ル?宇宙ノ旅』のなかで引用した宮沢賢治『農民芸術概論綱要』(1926)の言葉より。正しくは文章の一節を飛ばし飛ばし抜書きしている。実際の本番中に使用したのは以下の文章。

まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう

詞は詩であり 動作は舞踊 音は天楽 四方はかがやく風景画

巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす



本作は鳥取に来る前(つまり6年以上前)の衝撃的な体験と、『かめりあ』(2010)で触れた祖父母が営んでいた米屋の話を織り込んでいる。そして鳥取で作ってきた作品も織り込まれてきて、レビューにも完結編と書かれてしまったが、おそらく教員として授業を作るうちは続いていくだろうと思われる。(すでに鳥取編も計画中)ただ、これまで帰国してからの10年ほどの作品がすべて「当事者研究」に基づいているものであり、そういう意味では個人の暮らしや生き方からまさかの138万光年宇宙にまで繋がっていくんだということが面白く、またすごかった。完結編と誤解されても仕方がないくらいのボリュームでもあったと思う。

ただ全ての円が閉じるように、努めた結果、危ういところまでいき、しかしちゃんと戻ってこれた。(周囲には温泉寺の観音様のご利益とも言われている)


ちょっと心配なところはあるが、すでに死んだも同じ身。何をしてもよくしなくてもよいところまできた。大概のことはなんとかなることもわかった。とした時に、何をしたいのだろうと改めて考えてみる。

毎年こうして書きながら2020年は「真っ暗闇を歩く」とタイトルをつけていた。その現状は全くよくなっていない。おそらく私たちがああだ、こうだと努力をしても、いつの日か世界は無に帰す。真っ暗闇に突入していくその中で、それでもまた新しい星が生まれていくものだということを信じずにはいられない。

夜空に輝く星のように、それぞれの個人が宇宙の微塵となりて輝き続けてあるように。


プログラムではコンステレーション(河合隼雄による言葉、星座を意味する)という概念を取り上げたが、近くにいても遠くにいても、死ぬ時はひとり。それぞれの生を全うできますように。



2021年

 2021年

コロナウィルス対策をしながら、公演を行うにはどうしたらいいだろうかという模索は今年も続きました。それはすなわち、そもそも「公演」とは何かということやそれでも「上演」を続けねばいけない必然とは何かということを考え続ける1年でした。

文化庁の助成のせいもあり、2021年後半は舞台公演が増えました。しかし、本当に生きるために作らねばならない作品はどれだけあっただろうと思ったりもします。持続可能な作品制作の形を模索しながら、思考を深め続けています。

おそらくコロナに限らず環境問題はじめ厳しい状況は今後も続くと思われます。昨年は「真っ暗闇を歩く」と書きました。(それがダン体3のブラックホールへ繋がっているんですが)あらゆるものが不確かで、先が見えない。そんな時だからこそ、改めて身体あるいは生身で会うことが大事になっていくだろうと感じます。実感、体験を大切に、1日1日を暮らしていくのだろうと思います。



作品

◎こぶし館3つの光



写真:田中良子(上:昼の光、下:たそがれの光)

    こぶし館の光の跡を撮る 波田野 州平

    こぶし館の光とともに在る 木野 彩子

    こぶし館の光に時を視る 三浦あさ子

3名の作家が集まり、久松山の麓の洋館で作品制作を行いました。波田野さんは家に帰ってからその日限定で見ることができる映像作品『光跡』を。三浦さんは現在まで定点観測(光が季節時間により変化していく)を継続しています。私はヴァレリーの詩をベースに1時間のほぼ動きが決まっている「昼の光」と夕暮れまで変奏曲のように延々とつづくインスタレーション型のパフォーマンス「たそがれの光」を制作しました。

終演後観客の方々に言葉を残してもらっており、それをもとに、次の作品が制作される仕組みができました。


その後、12月にこぶし館のオーナー徳永進さんの活動をまとめる文章を書きました(2022年3月に発行予定)。学生時代からのハンセン病の患者との交流から現在のホスピスまで一貫して継続してきた視点がこぶし館にもあらわれています。それらを踏まえて、改めて、この場所でのあり方を考えていきたいと思います。


◎鳥取夏至祭2021

今年も県外の皆さんにお越しいただくことは断念せざるを得なくなりました。しかし1年のオンライン対策(オンラインパフォーマンス勉強会も開催)は大きく、各地の映像を送っていただいたり、デュアルセッションを行ったり、またそれらをライブ配信しました。

一方鳥取県内の参加者(アーティスト、学生等)が30名以上に増え、ナイトミュージアムとして夜のわらべ館全館使用しての探検は好評を得ました。

状況に合わせて柔軟に、感染対策をしながら規模は縮小しても継続していくということが大事だろうと考えています。


写真:田中良子(上:ナイトミュージアム、下:おととからだであそぼう)



◎鎮

2018年にKIACにて『死者の書再読』を制作したご縁で、温泉寺本尊十一面観音の閉帳に合わせてパフォーマンスを制作しました。豊岡演劇祭は中止になってしまいましたが、少人数で開放した空間で行うよう配慮し、静かな舞の時間を持ちました。もともと大きなお祭りの後には祈りのための舞(人に見せるものではない)があるもので、3年の開帳期間に感謝し、次の開帳までの30年間を想い、修行は続いていくのでしょう。

奇跡的な天候具合も含め、贅沢な、そして幸せな会でした。




写真:上田中良子、下bozzo


◎レクチャーパフォーマンス『ダンスハ體育ナリ?其ノ三 2021年踊ル?宇宙ノ旅』

Lecture-Performance: “Dance Becoming Physical Education?” Vol.3 2021:Space Odyssey (with dance?)

2016年から始まったシリーズの新作はプラネタリウムから138万光年の旅に出てしまう特別版となりました。オリンピック、万博といった内容から「未来」について考えるもので、鳥取にきてから作ってきた作品「mobius」「死者の書再読」「銀河鉄道」「こぶし館」「鎮」がすべて織り込まれているかのようになりました。

其ノ二の時にも触れたように「みえないものをみようとする努力を私たちはしているだろうか」ということがテーマとしてあり、観客が能動的に想像力を膨らますことが重要であり、迫力や巧みさを魅せるのではなく、それぞれが自身の身体へと意識を向けるための試みが散りばめられている作品ともなりました。


制作中は宮沢賢治ワールドと思っていたのですが(作品内にも言葉が引用されている)、ふと「星の王子様」を読んで、ベースはこちらかもしれないと思ったのでした。(星の王子様、ちゃんと読んだのは終演後で、その時も本屋で本が光ってました。名作なのに読んだことないなんてと怒られそう。終わってから知る、そんなものです)たくさんの星のどこかだけれど、どの星でもあるんだ、そんな話をした翌朝、身体の中にお星様ができていて入院沙汰になるという衝撃的な事件が起きました。

観音様のご利益か、回復し(お医者さんも驚いていた)、元気にしています。

これまでも作品を作る時は命がけというか、誰かを救うためだったり、禍を避けるためだったり、方違えもしながら、最大限努力をして望んできておりましたが、そろそろ歳でしょうか。しばらく様子を見つつ、少しずつ続けていく方法を考えていこうと思います。


この件も含めすべてが必然の中あり、つながっているということを改めて感じました。


写真:ユーリア・スコーゴレア


企画

◎わらべ館 音とからだであそぼう! 即興音楽とダンスのワークショップ

昨年まで文化庁事業として行ってきたファシリテーター養成のための勉強会ですが、形を変えつつ継続していくことにしました。荻野ちよ さん(ダンス)、田中悦子さん(ダンス)、森本みち子さん(音楽)、高橋智美さん(音楽、わらべ館職員)とほぼ月1のペースで行っています。鳥アート中部地区地区事業として倉吉でも11月にワークショップを行い、少しずつ続けていきましょうと話しています。冬の間は雪の問題もありしばらくお休みですが、またぜひ遊びに来てください。


その他

◎2021年1月1日

日本海新聞さんに、知事さん、中島さん(鳥の劇場)、棚橋さん(ビオラ奏者)との対談が掲載されました。お正月特集ということでカラー見開き二面。一生に1度だろうということで永久保存版になりました。

そんな1日でしたが、当人は雪の砂丘で写真のモデルとなっていました。鳥取出身の写真家水本俊也さんの撮影のもので、県内外で展示が行われているようなのですが、私も全貌はまだ見ていません。シチリアで溺れる役を演じた時以来の過酷ロケでしたが、なかなかない機会となりました。なお、その時の経験がダン体3の砂丘映像に生かされています。



さて、来年はどのような一年になるのでしょうか。
皆さんの1年がよき年になりますように。大雪の鳥取より。

2021年12月12日日曜日

ダンスハ體育ナリ?其ノ三 2021年:踊ル?宇宙ノ旅

 

木野彩子 レクチャーパフォーマンス

『ダンスハ體育ナリ?』其ノ三 2021年踊ル?宇宙ノ旅

2021:Space Odyssey (with dance?)

Lecture-Performance: “Dance Becoming Physical Education?” Vol.3

日本では体育の一環として教えられているダンス。健康のために、音楽に合わせて清く正しく美しく。其ノ一では明治期からの女子体育の歴史と大野一雄を、其ノ二では1940年幻の東京オリンピックと体操の大流行を扱ってきました。日本人の集団性が教育の中で養われ、個人の自由な表現は軽視されてしまう傾向があるのは否めません。体育は特に身体から思想全体へと影響を与えてきました。体育がスポーツ化するのに合わせ、ダンスのスポーツ化も進み、すごい身体を目指して追求する人とそれを見る人の分断が進んでいく中、もう一度一人一人が自分の身体と向き合う時ではないかと考えます。2024年パリ五輪ではとうとうダンスが正式種目になりますが、ダンスは競い合うものではなく、お互いの違いを認め合うものであったはずです。優劣をつけるものではなかったはずなのに、いつから選ばれた人のためのものになってしまったのでしょうか。そして誰が何を基準に優劣を判断できるのでしょうか。審査員が?マーケットが?メディアが?世界が?それって、誰ですか?

 シリーズ第三弾となる本作では、ダンスどころか身体をそして自己を放棄しつつある人類の未来について、考察します。整形などの身体変工から2.5次元ミュージカルの台頭、コスプレをみてみると、何者かへの変身を望み、結果として実体の自分を否定してしまう現代の文化が見えてきます。それは本当に幸せなことなのでしょうか。アバターやバーチャルリアリティに可能性があることは確かですが、全てを自分が、あるいは人間が作り出していると思ってはいないでしょうか。一人一人の身体はこの宇宙の星にもつながっていて、だからこそかけがえのない輝く生命であったはずです。138億年の記憶がこの細胞、DNAに眠っていて、ダンスは元々それらの記憶を辿り、蘇らせるような行為だったのではないでしょうか。だからダンスは文字の生まれる前から途切れることなく続いているのです。私たちはこの身体からしか考えることはできません。身体から一緒に考えてみましょう。この身体で、ライブでなければできないこととは何なのか。ダンスはどこへ向かうのか。プラネタリウムで宇宙の旅に出る特別編。

構成・出演:木野彩子
プラネタリウム映像コーディネート:宮部勝之 
音響:國府田典明
プログラムデザイン:北風総貴(ヤング荘) 
企画制作:キノコノキカク
企画協力:NPO法人ダンスアーカイヴ構想
協力:港区立みなと科学館、国立天文台4次元デジタル宇宙プロジェクト(4D2U)

 In Japan, dance is taught as part of physical education in schools. For the purpose of good health, students dance to music with purity, correctness, and beauty. In Volume One of the current series, I dealt with the history of women’s physical education since the Meiji era and Kazuo Ohno, while in Volume Two I dealt with the phantom Tokyo Olympics of 1940 and the craze for physical exercise. It is undeniable that the Japanese tend to cultivate a collective nature in their education and pretend not to see the free expression of the individual. Physical education in-particular has come to have an influence on the body, through to the whole of thought. As the sportification of dance advances alongside sport-centered physical education, and as the division between those who pursue an outstanding physique and those who watch on as spectators continues to grow, I think it is time for each of us to once again face our own bodies. Dance will finally be an official event at the 2024 Paris Olympics, but it was never supposed to be about competition; dance should be a means to mutually recognize the differences between us. Never intended as something to be judged on the basis of merit, since when did dance become the pursuit of a select few? And who can determine superiority or inferiority, and based on what standard? A jury? The market? The media? The world? Who exactly is that?

 In this, the third installment of the series, I examine the future of humanity, which is abandoning not only dance but also the body itself. From plastic surgery and other forms of bodily transformation to the rise of 2.5-dimensional musicals and cosplay, we see a modern culture that desires to transform itself into something else and deny its true self as a result. Is that really something to be happy about? There is certainly potential in avatars and virtual reality, but doesn’t anyone think it is all something we, or humans, have created? Each of our bodies is connected to the stars in the universe, and that is precisely why life is irreplaceable in all its iridescence. 13.8 billion years of memories lie dormant in our cells and DNA, and dance was originally something like the act of tracing those memories and bringing them back into existence. That is why dance has persisted without interruption since before the birth of letters. Thought is only possible in this body. Let’s think together starting from our own bodies. What can only be achieved in a live setting, using this body? Where is dance heading? This special edition takes you on a cosmic journey in a planetarium.

Direction, Performance: Saiko Kino
Planetalium film coordinator: Katsuyuki Miyabe
Sound Design: Noriaki Koda
Program Design: Souki Kitakaze (Young Soul)
Production planning: KINOKONOKIKAKU
Production cooperation: NPO Dance Archive Network
In collaboration with Minato Science Museum, FOUR-DIMENSIONAL DIGITAL UNIVERSE PROJECT, NAOJ

Dance New Air 2021HP:https://dancenewair.tokyo/2020/saiko-kino/

Interview:https://dancenewair.tokyo/2020/interview04/




写真:ユーリア・スコーゴレワ


ダンスハ體育ナリ?シリーズはプログラムが冊子になっていて、今回も25000字を超える。(参考文献リストを載せる)ここでは終わりにを転載しておくが、興味のある人は手にとっていただけると嬉しい。


8. 終わりに(2021年8月22日・2021年11月5日)


2021年8月22日 福島県双葉


本当だったら4回目の緊急事態宣言が明けるはずだったこの日、しかしそうそうに延長が決まり、目処が立たない。全国での感染者数は22000人を超え、東京だけでも5000人を超える日が続いている。そして検査の数を減らしているせいか陽性率は非常に高くなっている。医療関係者の声は必死だ。でも、それが政治に届いていない気がする。

平和の祭典であるオリンピック、パラリンピックは日本の普通の医療体制の限界を超えて開催するらしい。子供たちの観戦も含めて。通常の学校の授業再開ですら危うい状況の中、命をかけて行うことだろうか。

当たり前のことが当たり前ではなくなってしまったのはいつからだろう。そんなことを思いながら福島の双葉にやってきた。つい3月まで帰宅困難地域であったものの、駅周辺は解除となり、ある意味福島からの復興のために「造られようとしている街」である。

駅から東日本大震災伝承館・原子力災害伝承館、その横の復興祈念公園、産業交流センターまで歩いて30分ほど。きれいな道ができており、しかし通る車も人も少ない。

周辺の家々は荒れ果てたまま。10年前から時が止まったままになっている中、真新しい建物が見えてくる。

オリンピックの聖火リレーが通るために、間に合わせるかの如く用意された「復興」と、全く10年前から変わっておらず、置き去りにされたこの土地と、その両方を如実に表している。町のシンボルとなっていた原子力スローガンの看板は建物の裏にひっそりと置かれていた。原子力の怖さを一番よく知る人たちがここで少しでもと口伝するが、その人たちもまたこの土地では暮らせず、隣町からやってくる。

通りかかった放射能測定器の値は1.23μSv/h。20m離れた先は除染した土などを埋める中間貯蔵施設のエリアで入れなかったりするような場所なので当たり前と言えば当たり前だが、ここではそれが10年続いており、日常と化している。その土地の人の話を聞くと、当たり前ではない日常を送っている自分たちのことが、他の地域や世界に忘れ去られていくような不安を感じているようだった。

街はきれいになるかもしれない。でもそれは表向きをきれいにしただけで、何もなくなっていない。デブリも汚染水も何も解決していない。大量の汚染土もとりあえず「中間貯蔵として」埋めるけれどでも、その後どこへと言うのは決まっていない。この街の人は誰も責めることができず、そしていなくなった。

復興が表向きのきれいさを指すのであれば10年でここまで変わりましたと言えるかもしれない。しかし、人のつながりを失い、暮らしを失った人たちが戻ってくるのは難しいだろう。あくまで、土木系のインフラのための仕事としてくる人が来るだけで、それだけのことだ。

この状況を抱えて10年が経過し、そして全く関係のないところでオリンピックという祝祭は続いている。祝うの前に、まず、この現状をみよう。この国はそんなに浮かれている暇はない。この土地の人々に謝ろう。突然に非日常が日常となってしまったことをちゃんと受け止めるところから始めなければいけないのではないだろうか。


この国の政治の形は責任を取らない。なので、適当にすり抜けて逃げ切るということが当たり前に行われてきた。お金の問題だけではなく、安全に生きるという生存権すら危うくなってきている中、ちゃんと物事を見る目を持てるようになりたいと私はやはり考えている。


一方で、そういう難しいことは置いておいて、感覚で生きるそんな世代が生まれているという事も感じる。大きい力にとりあえず寄り添っておいた方が楽だと考える流れが確実にある。そんな当たり前を疑うところが学問の始まりであるにもかかわらず。




2021年11月5日 東京都港区


プログラムの写真及び終演時の映像は360度カメラを用いて双葉町東日本大震災伝承館の傍らで823日の出の時刻に撮影したものを選ぶことにした。生憎の雨で、水滴が涙のように映り込んでしまった。私たちがああだ、こうだと努力をしても、いつの日か世界は無に帰す。真っ暗闇に突入していくその中で、それでもまた新しい星が生まれていくものだということを信じずにはいられない。




なお、レビューがウェブにて紹介されました。

タイトルが気になって、木野彩子のレクチャーパフォーマンス『ダンスハ體育ナリ?』 其ノ三を観にいく。ダンスが体育に組み込まれたところから始まって、彼女のレクチャーは前回の東京オリンピックや大阪万国博、今回の東京オリンピック、パラリ ンピックと続いていくのだが、実際に鳥取大学で教える木野の話術やチャーミング な声の力もあって、説得力に満ち、終始頷きながら聞き入っていった。だからだろう、 後半、私たちは唐突にも、広大な宇宙への旅へと連れ出されていくのだが、それも 自然な流れとして素直に受け止めることができた。新型コロナウイルス感染症パン デミックに翻弄される私。138 億年もの時空に広がった宇宙。オンライン上には存 在し得ない、このちっぽけな、しかし確かに実在する私という身体。今、目の前で 踊リ始める木野彩子という身体。思わず、自分の肩をまさぐってしまった。 毎年、こんなふうに新しい風を送り込んでくる Dance New Air という試みに、 この夜、私は深く感謝した。

芦沢 高志 / アートディレクター、都市・地域計画家

-----------------------------------------------------------------

多角的な視点から、ダンス、オリンピック、身体、宇宙、生と死を、ユーモア交え つつ豊富な映像資料でレクチャーしているところからするっと抜けて踊り出す木野さんは、観客を自然に論理と想像の世界を行ったり来たりさせる。 プラネタリウムに投影される星が溢れる果てしない宇宙と、何もない地平線で踊る 彼女の細い肢体の対比に、宮沢賢治の ” まづもろともにかがやく宇宙の微塵となり て 無方の空にちらばらう ” の言葉が巡り、私達は地球上にいる多様な生物の一つ にしか過ぎず、素粒子に戻れば全ては同じもので、互いに影響を与え合ってこの宇 宙を成していることを愛しく感じさせてくれました。

湯浅 永麻 / 振付家・ダンサー 











2021年10月5日火曜日

 このコロナ下ではあるものの、何度か温泉寺に通い、住職にお話をお聞かせいただいたり、祈祷を見させていただきました。毎日繰り返し続ける祈祷は仏様のようにありたいと思い、あれないということを思いつつも少しでも自身を高めていく行為であり、この世のために祈り続けるその姿は舞踊のように美しいと思われました。

毎日同じことを繰り返すので、と言いながら、経本はほとんどみない。毎日繰り返すバーレッスンやストレッチ、身に染み付いた振付に似ています。一方で、それはみられるから行うというものでもなく、見る人がいようといまいと、日々の糧としてただ続いていくだけのことなのです。

コロナウィルス は確かに人命を脅かすものかもしれません。この豊岡でも演劇祭が中止になったり、観光地である城崎温泉も厳しい状況であることが感じらます(鳥取でも同様です)。しかしウィルスもまた生命であり、そこに存在するものであるならば、ある種の必然であったのではないかと最近考えるようになりました。多くの天変地異や温暖化も含め、今の私たちの暮らし方そのものを少しずつ変化させていかねばならないし、今のままではダメだよと仏さまなのか、自然からなのかメッセージを、私たちは受け取っているのではないでしょうか。

古くから伝わるものにはなんらかの大切なものが含まれています。最小限何を大切にしなければいけないのか、住職の毎日のお勤めはそんなことを考えさせられるきっかけになりました。まずは毎日の暮らしを見直してみましょう。この参道の美しさや、季節による虫の声の変化、道を彩るきのこや苔たちに気がつくようになったのは、このコロナ下になって以降のことです。自然の営みはそんなに変わっていないにも関わらず気がつけていなかったことが見えてくるようになりました。豊岡は(そして私が住む鳥取は)自然が豊かに残っている土地であり、自然によって生かされていると感じることができる場所でもあります。気持ちを鎮め、少し歩みをゆるめてみることで見える景色が変わってくると感じます。

この土地に今このタイミングで生まれついているということ、今日、同じ時を過ごしているということはある種の奇跡であり、幸せなことでもあります。大変な状況ではあるものの、それでもお会いできてよかった。お越しくださった皆さま、ありがとうございました。そうして励まされる営みだからこそ、規模は小さくとも、あるいは形を変えたとしてもパフォーミングアーツは続けていかねばならないと強く思っています。

 

次は33年後でしょうか。私はもういないかもしれません。(残念ながら今回関わってくれたスタッフ、お客様の多くも。)それでも、十一面観音さんは静かに微笑み続けるのでしょう。コロナでも、異常気象でも、様々な天変地異は今後も起こっていくとしても、それもまたこの世の理。

それでも今、この瞬間に感謝して。

2021926日@温泉寺

木野彩子

 

Stuff

照明 三浦あさ子、田中哲哉

記録 田中良子、bozzo

Special Thanks 

小川祐章(温泉寺)








写真:bozzo


2021年4月1日木曜日

鳥取夏至祭2021





ごあいさつ

 2017年からはじまったこの「鳥取夏至祭」は5年目を迎えました。私(木野)が鳥取に赴任し、この街を知っていくのと共に、新たなパフォーマンススペースや出会いを求めて開拓を続け、鳥取県外の友人ダンサー、音楽家が立ち寄る機会となりました。コロナウィルス感染対策もあり、オンラインとオフラインの併用型になって2年目。小さくてもできることをし続けることの大切さを改めて思います。学生たちの1年は短く、今、ここで出会えなかったらもしかしたら一生出会うことはない。だからこそ、継続していかねばねらないのです。

ナイトミュージアムでは昨年行うはずだった企画をやっと実現します。県外のアーティストは来ることができなくなりましたが、その分鳥取の面白い人々に出会いました。普段は普通に学校の先生などお仕事をしている、でも一本筋の通ったアーティストがぽろぽろと出てきました。アートも地産地消。今こそ鳥取でなければできない表現を鳥取から発信していくことが大事なのではないでしょうか。自分の住む場所の良さを発見し、誇りを持つこと。オリンピックやコロナに踊らされることなく、独自の文化を生み出し続けること。いろんな人がそれぞれの立場で意見を述べることができる場所。鳥取はそんな場所になっていくのではないかという予感がします。

一方で、現実社会ではそんな当たり前のことがしにくくなっているとも感じます。時代による変化というのはありますが、少数派の声は後回しにされ、経済効果だけが求められてしまう。芸術の価値は、お金でははかれないものですが、集客数や話題性だけに囚われてしまう傾向があります。国のお金をもらっているのだから国のいうことをいえと言われかねない始末。鳥取夏至祭はもう一度遊ぶところから考え直してみようという試みです。面白おかしい大人達に巻き込まれながら、学生達も一緒に脱線してもいい人生の豊かさを作り出す、そんな試みです。お金の問題じゃない。ほんたうのさいわいとは何か、それを問うための運動体が作られていくことを目指しています。

今年から鳥取夏至祭の実行委員会に個人名を入れました。メンバーやわらべ館の皆さんに支えられるようになり、少し規模が大きくなりました。変な先生だなと思いながら巻き込まれる学生さんも増えてきました。この子達がまた新たな星となり、いろんな人に出会うきっかけになっていくかもしれないと信じています。

これまで参加してくださった皆さん、鳥取を気にしてくださっている皆さん、いつの日か、またこの土地でお会いできる日を楽しみにしています。鳥取夏至祭実行委員会の皆さん、参加者の皆さん、わらべ館の皆さん、いつもありがとうございます。楽しい時を過ごしましょう。たとえこの世の中は真っ暗闇になっても、その記憶が光となる。だからこそ。 

木野彩子


鳥取夏至祭のこれまで

•2017年駅周辺の賑やかなエリア(風紋広場、けやき広場、ヤマネデンキ(現office24)、袋川土手など)

•2018年とりぎん文化会館周辺の文教地区と呼ばれるエリア (とりぎん文化会館中庭、県立博物館、わらべ館、カルマ、真教寺公園など)

•2019年比較的静かな住宅街エリア(樗谿公園、鳥取東照宮、樗谿グランドアパート、Hospitale(旧横田医院)など)

•2020年オンライン・オフライン開催(わらべ館)



鳥取夏至祭2021

コロナウィルスの感染拡大が進行する中、「芸術文化のあゆみを止めてはいけないのではないか」とわらべ館の方と相談し、開催を決定したのが今年の3月。それからできることを模索してきました。多くの都道府県で緊急事態宣言が出される中、アーティストを招くのではなく、鳥取県内のアーティストで行うべく、計画を立て、これまで関わってくれていた県外の皆さんには映像等でサポートしていただく形にしました。また、会議システム Zoom を利用したワークショップや実行委員会を毎週2回程度、定期的に開催し、この企画の運営を行ってきました。

昨年の経験が生かされ、オンラインの表現や可能性の模索に拍車をかける一方、生身の身体の表現の豊かさを改めて感じます。身体から発している波動のようなものはやはりオンライン・映像ではなかなか味わうことができないものです。そのような喜びを噛みしめながら、今年も夏至を迎えます。今回くることができなかった皆さまに愛を込めて。いつか、必ず、またお会いしましょう。


鳥取夏至祭2021HPにてナイトミュージアム の映像を公開しています。7月22日まで。

https://geshisai2021.jimdosite.com


2021年3月1日月曜日

こぶし館3つの光 プログラムノーツ

 今回それぞれがそれぞれにテキスト等を用意しています。

昼の光とたそがれの光は内容が異なり、前者はほぼ行う内容、時間軸、空間の移動経路がフィックスしています。たそがれの光はその部分を膨らませながら、拡張させていて、全ては自らの身体が暗闇に溶け込んでいくその時に向かっての伏線のように張り巡らされています。全てを見れた人は写真の田中さんくらいですが、全てを見たらそれはそれで面白い。

緩やかにその場所でしかできない、その場所のためのパフォーマンス。そしてパフォーマンスがあることでその場所のヒカリや空気、音に気がつくようなインスタレーションとしてのパフォーマンスです。


この手、わたしの顔に触れようと夢みながら、ぼんやりと、何か深い目的にでも従っているのか、この手は待っている、わたしの弱さから涙がひとしずく溶けて流れるのを。

そしてまた、わたしの運命からゆっくりと分かれ出てきた、もっとも純粋なものが敗れた心を黙々と照らし出してくれるのを。手のひらに影を移してみる。触れようとしても影そのものには触れることはできない。

ヴァレリー


昼の光

ある晴れた日

手のひらに影を移してみる。触れようとしても影そのものには触れることはできない。

 

ヒカリのシカクを薬指でなぞってみる。

床に耳をつけてなぞる音を聞いてみる。

 

マドのシカクをなぞってみる。

射し込む光は暖かい。

 

鳥の声が聞こえる。2週間前は鳥たちもいなかったのに、もう春らしい。

窓の外はあんなにも自由なのに。

息をすることすら忘れていた。言葉にならない声が溢れる。

 

この部屋は美しい。

時々刻々と時が流れ、ヒカリのシカクも移動していく。私も立ち上がらなければならない。

 

白い壁はひんやり、つるりとしている。

私の身体に影を移してみる。しかし光がぼやけてしまい像に結びつかない。2重に3重にいる彼方は誰。

30年の間にできた小さな傷を薬指で撫でていく。指先の触感で見なくても辿ることができる。そしてその音をきいてみる。

壁に、床にある傷やしみは一つ一つがそこにいた人の記憶。

この部屋は小さな音で溢れている。

 

丸い星はなぜ一つだけ銀色なのだろう。小さく小さく揺れている。私もまた星の一つとして揺れている。

その飴玉のように甘い毒は私が預かりましょう。

 

誰もいない食卓はそのままあり続けていた。傷を辿っていくとヒカリのシカクにたどり着く。シカクを薬指でなぞってみる。

崩れ落ちる。左肩だけがほんのり暖かい。

ふるさとはとおきにありておもうもの

「おかあさーん」[1]という声が聞こえる。猫のように小さく丸く収まろうとするがはみ出てしまう現実。

束の間の休息、大いなる正午。

 

射し込む光の方へ手を差し伸ばす。目覚めたら手の指がなくなっていた。なぜ私が。誰にでも、いつでも起こり得た。そういうことだった。

ヒカリのシカクをこぶしでなぞるが、怒りにもならない。

誰もいない食卓に一人残され、じっと手を見る。

 

そんなことはなかった。そう信じたい。指があるのであればせめて祈りましょう。窓の外では鳥が鳴き、雲が流れる。「小さな空」[2]を想起させる。

ここには誰もいない。そしてこないだろう彼方を待ち続けている。かれこれ30年。建物の小さなつぶやきは傷の中に、しみの中に積もり重なっていく。

 

おどりとは本来そのような記憶や想いを自身の中に受け取って、あらわれ出させるものでありました。ある種のメディウム(メディアの複数形、巫女)であり、それは特殊な技能ではなく、すべての人が持っていたものでした。丁寧に物事をみること、ふれること、きくこと、それを促すためのインスタレーション・パフォーマンスです。



[1] ハンセン病フォーラム(2019)に合わせて行われたアンケートに基づく。会場内の椅子の上にその際の記録集を置いておきます。

[2] 武満徹作詞・作曲










たそがれの光

 

ある晴れた日

2時を過ぎるとヒカリは弱くなっていく。手のひらをヒカリにかざすが、時々刻々と弱まっていくのを感じる。手のひらと手の甲。表と裏で感じ方が違う。どちらが表か、どちらが裏か。

右腕で左肩に触れる。うっすら影に入ってしまっていて少し冷たい。引っ張り寄せて暖かい場所へ連れて行こうとする。そのような無理をしても、もう左肩は戻ることはない。肩も腕も物質であったのだということに気がつく。

 

白い壁はひんやり、つるりとしている。

私の身体に影を移してみる。しかし光がぼやけてしまい像に結びつかない。2重に3重にいる彼方は誰。

30年の間にできた小さな傷を撫でていく。指先の触感で見なくても辿ることができる。そしてその音を聞いてみる。

壁に、床に一つ一つがそこにいた人の記憶。

この部屋は小さな音で溢れている。

 

窓を開ける。

鳥の声が聞こえる。2週間前は鳥たちもいなかったのに、もう春か。

窓の外はあんなにも自由なのに。

息をすることすら忘れていた。言葉にならない声が溢れる。

 

あたたかさを求めて移動する。ベンチにちょこんと腰掛け、温まろうとするが、眩し過ぎるヒカリにやられてしまう。直接みたり触れようとしてもできない。私には寄り添うことしかできない。

 

ヒカリのシカクを薬指でなぞってみる。

壁に耳をつけてなぞる音を聞いてみる。

 

マドのシカクを薬指でなぞってみる。

射し込む光は暖かく、手だけでもそれに触れようとする。

机の傷を薬指でなぞってみる。

机に耳をつけてなぞる音を聞いてみる。

手のひらをみる。じっとみる。手のひらと手の甲。感じ方が違う。

机の傷を辿りながら誰もいない食卓を回っていく。思いがけず「いない人」に出会うことがある。そこでいないことにするのか、認めるのかはその人に委ねられる。

 

机の傷に導かれていく。ヒカリのシカクの傍に横たわり、あたたかいヒカリを手に受ける。それをぎゅっと握りしめる。

空には一面のお星さま。なぜ一つだけ銀色なのだろう。小さく小さく揺れている。私もまた星の一つとして揺れている。

 

射し込む光の方へ手を差し伸ばす。目覚めたら手の指がなくなっていた。なぜ私が。誰にでも、いつでも起こり得た。そういうことだった。

誰もいない食卓に一人残され、じっと手を見る。

 

そんなことはなかった。そう信じたい。指があるのであればせめて祈りましょう。窓の外では鳥が鳴き、雲が流れる。

ここには誰もいない。そしてこないだろう彼方を待ち続けている。かれこれ30年。建物の小さなつぶやきは傷の中に、しみの中に積もり重なっていく。

 

この部屋は美しい。

時々刻々と時が流れ、ヒカリのシカクも移動していく。私も立ち上がらなければならない。その飴玉のように甘い毒は私が預かりましょう。

 

耳をふさぐ。ザーッと血流の流れる音が聞こえる。指関節が動くとその軋みが聞こえる。建物だけではなく私自身の中もまた傷やしみを多く抱えていて身体の中には小さな音が溢れている。

 

17:57、日の入りののち、私も彼方も闇の中に溶け始める。この壁にうつしだされた影もまた徐々に薄くなり、私との境目をなくしていく。影に触れることはできないが、影と共にあることはできる。「わたし」という存在を消失させていくことによって、影を移し出そうと試みる。いや、影を移し出すのではなく、私が影にのまれ溶け込むだけだ。

たそがれとは誰そ彼、私が私ではなくなり、彼方が彼方ではなくなる、その瞬間を指す言葉である。

 

 

 

 

おどりとは本来そのような記憶や想いを自身の中に受け取って、あらわれ出させるものでありました。ある種のメディウム(メディアの複数形、巫女の意味も含有している)であり、それは特殊な技能ではなく、すべての人が持っていたものでした。近年、「自己表現」や「自己実現」が求められますが、舞踊はもともと視野を転換させながら、自己を消失していく行為であり、ゆるやかで穏やかな自殺のようなものと考えられます。土方巽が「舞踏とは命がけで突っ立っている死体である」という言葉を残したように。

丁寧に物事をみること、ふれること、きくこと、それを促すためのインスタレーション・パフォーマンスです。



こぶし館3つの光

 こぶし館3つの光と題し、3人のアーティストが関わりつつ作品発表を行いました。木野は「こぶし館とともに在る」というタイトルで昼の会がおよそ1時間、たそがれ時は3時間半に及ぶパフォーマンスを行い、観客は自由に出入りをしながら、光の変化や空間を見る機会としました。完全に静寂(暖房すらも切った状態、写真等も屋外から撮る形)のなか、それぞれに時を過ごしていただく形を取りました。見終わった観客にアンケートで「今、ここで何をみましたか?」と尋ね、それらはまた今後の作品制作や研究へとつないでいきます。

波田野さんによる『光跡』は終了後カードが配られ、各自の家等でこぶし館で起きたことを振り返る作品でした。

この場所の記憶に想いを馳せるそんな機会となったと思います。












2021年1月12日火曜日

Oil ,Water and Woman

 oil,water and woman

鳥取県立博物館の現代美術展示『ミュージアムとの創造的対話3ー何が価値を創造するのか』の特別企画として2020年末に踊らせていただきました。原口典之さんの作品『oil and water』の水のプールで踊ることとし、タイトルを付け加えさせていただきました。リハーサルを行い、いろんなことが想起され、『死者の書再読』(2018)、『みみをすます』(2017)、『静』(201420122010)『筒井筒』、『OvO』『Edge』などいろんな作品の要素を詰め込んだ(少なくとも私はそれを思い出した)機会となりました。


手に榊を持ち、床を踏み鳴らし、清める舞をまわせていただき、2021年が皆さんにとって良き年になりますように祈ることとしました。

Asynchronous(非同期的)

 鳥取のマリンバ奏者Tomo.さんが企画してくださった公演。

用瀬のコーヒーやさん 燕珈琲さん

とともに行った構成のある即興のパフォーマンス

(Tomo.さんは打ち込みなどで作成した楽曲をベースに即興を展開するタイプの方なので、音楽の尺、構成はほぼ決まっています。)

2020年末コロナウィルス感染予防措置をとりつつ、少人数公演として開催しました。

会場のAno Sokoは酒造倉庫をリノベーションして作られたスタジオで大きな冷蔵庫がある不思議な空間でした。










PHOTO:藤田和俊



映像はAno sokoの田村さんが作ってくださいました。いつの間にどこから写真撮ったんだ?というシーンの数々。

2021年1月4日月曜日

わたくしという名の現象

 『わたくしという名の現象』(2020)

ダンスボックス (神戸)の照明研究会にて発表。照明家三浦あさ子さんとのコラボレーション。以下はオンライン配信時の付属テキスト。

詩は宮澤賢治の代表作『春と修羅』の序である。正式には「わたくしといふ現象」が正しい表記で、間違って朗読してしまったのだが、それをさらに離れてみる視点ということでそのままの言葉でタイトルとした。

今回照明研究会の中での作品作りということで舞台空間上に照明と私が並列にある形を取れないかと考えた。また、照明を問う意味で「かげとひかりのひとくさりづつ」を表すべく、フィボナッチ数列をもとに明るい時と暗いときの時間を合わせ織り交ぜることとした。舞台は見るだけのものではない。肌で感じるものである時、照明の有無に関係なく、ダンサーは動き続けあり続ける。照明がなければそれはないことになるのだろうか。これまで私の作品は暗いものが多くそのほとんどが映像で残らないのだが、三浦さんと映像さんの力により、きちんと見える化し残すことで、より明確にそのことを意識させられるようになった。

 

宮澤賢治は心象スケッチと称して平行世界を描こうと試みた。見えないものではなく見ていないだけではないのかと突きつけてくる。それらの世界は星の数だけ人の数だけ点在しており、彼自身の生もまたそのうちの1つであるとみていたように思われる。最後のシーンでランダムに照明を変化させ、暗転する予定だったのだが、アクシデントか明転となった。現実の世界に引き戻されるということか、あるいはまた異なる平行世界にたどり着いたということだろうか。パフォーマンスのたびに考えさせられる作品になった。

きのさいこ

 

青空文庫:https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1058_15403.htmlにて元の文章を読むことができます。

 照明担当 三浦あさ子さんより

木野さんからこの作品の構想を聞いたときに、「目に見える形で照明のスポットと木野さんが対峙する構図」というアイデアを思いつきました。 そして、以前から使ってみたかったスポットを提案。それは大昔といっても昭和30~40年代ぐらいに学習机についていた存在感のある丸い形の電気。元々の持ち主は札幌の方です。 わたしの中の想定ではある人(女)を待つある男(電気)のいる架空の部屋でした。 学習机用の電気なので、存在するために机が必要になり、ダンスボックスにあったテーブルを使うことにしました。この部屋は境界もはっきりしていなくて時間も伸び縮みするような場所のような…。 その空間の中にある人(女)がとある時間を過ごすためにやってくる。ある男(電気)は機械的にそれに寄り添ったり、突き放したりしているようで、駆け引きのある時間を感じきました。 

たしかに…最後暗転しなかったことが興味深い結末になったように思います。






photo by 岩本順平