2021年12月12日日曜日

ダンスハ體育ナリ?其ノ三 2021年:踊ル?宇宙ノ旅

 

木野彩子 レクチャーパフォーマンス

『ダンスハ體育ナリ?』其ノ三 2021年踊ル?宇宙ノ旅

2021:Space Odyssey (with dance?)

Lecture-Performance: “Dance Becoming Physical Education?” Vol.3

日本では体育の一環として教えられているダンス。健康のために、音楽に合わせて清く正しく美しく。其ノ一では明治期からの女子体育の歴史と大野一雄を、其ノ二では1940年幻の東京オリンピックと体操の大流行を扱ってきました。日本人の集団性が教育の中で養われ、個人の自由な表現は軽視されてしまう傾向があるのは否めません。体育は特に身体から思想全体へと影響を与えてきました。体育がスポーツ化するのに合わせ、ダンスのスポーツ化も進み、すごい身体を目指して追求する人とそれを見る人の分断が進んでいく中、もう一度一人一人が自分の身体と向き合う時ではないかと考えます。2024年パリ五輪ではとうとうダンスが正式種目になりますが、ダンスは競い合うものではなく、お互いの違いを認め合うものであったはずです。優劣をつけるものではなかったはずなのに、いつから選ばれた人のためのものになってしまったのでしょうか。そして誰が何を基準に優劣を判断できるのでしょうか。審査員が?マーケットが?メディアが?世界が?それって、誰ですか?

 シリーズ第三弾となる本作では、ダンスどころか身体をそして自己を放棄しつつある人類の未来について、考察します。整形などの身体変工から2.5次元ミュージカルの台頭、コスプレをみてみると、何者かへの変身を望み、結果として実体の自分を否定してしまう現代の文化が見えてきます。それは本当に幸せなことなのでしょうか。アバターやバーチャルリアリティに可能性があることは確かですが、全てを自分が、あるいは人間が作り出していると思ってはいないでしょうか。一人一人の身体はこの宇宙の星にもつながっていて、だからこそかけがえのない輝く生命であったはずです。138億年の記憶がこの細胞、DNAに眠っていて、ダンスは元々それらの記憶を辿り、蘇らせるような行為だったのではないでしょうか。だからダンスは文字の生まれる前から途切れることなく続いているのです。私たちはこの身体からしか考えることはできません。身体から一緒に考えてみましょう。この身体で、ライブでなければできないこととは何なのか。ダンスはどこへ向かうのか。プラネタリウムで宇宙の旅に出る特別編。

構成・出演:木野彩子
プラネタリウム映像コーディネート:宮部勝之 
音響:國府田典明
プログラムデザイン:北風総貴(ヤング荘) 
企画制作:キノコノキカク
企画協力:NPO法人ダンスアーカイヴ構想
協力:港区立みなと科学館、国立天文台4次元デジタル宇宙プロジェクト(4D2U)

 In Japan, dance is taught as part of physical education in schools. For the purpose of good health, students dance to music with purity, correctness, and beauty. In Volume One of the current series, I dealt with the history of women’s physical education since the Meiji era and Kazuo Ohno, while in Volume Two I dealt with the phantom Tokyo Olympics of 1940 and the craze for physical exercise. It is undeniable that the Japanese tend to cultivate a collective nature in their education and pretend not to see the free expression of the individual. Physical education in-particular has come to have an influence on the body, through to the whole of thought. As the sportification of dance advances alongside sport-centered physical education, and as the division between those who pursue an outstanding physique and those who watch on as spectators continues to grow, I think it is time for each of us to once again face our own bodies. Dance will finally be an official event at the 2024 Paris Olympics, but it was never supposed to be about competition; dance should be a means to mutually recognize the differences between us. Never intended as something to be judged on the basis of merit, since when did dance become the pursuit of a select few? And who can determine superiority or inferiority, and based on what standard? A jury? The market? The media? The world? Who exactly is that?

 In this, the third installment of the series, I examine the future of humanity, which is abandoning not only dance but also the body itself. From plastic surgery and other forms of bodily transformation to the rise of 2.5-dimensional musicals and cosplay, we see a modern culture that desires to transform itself into something else and deny its true self as a result. Is that really something to be happy about? There is certainly potential in avatars and virtual reality, but doesn’t anyone think it is all something we, or humans, have created? Each of our bodies is connected to the stars in the universe, and that is precisely why life is irreplaceable in all its iridescence. 13.8 billion years of memories lie dormant in our cells and DNA, and dance was originally something like the act of tracing those memories and bringing them back into existence. That is why dance has persisted without interruption since before the birth of letters. Thought is only possible in this body. Let’s think together starting from our own bodies. What can only be achieved in a live setting, using this body? Where is dance heading? This special edition takes you on a cosmic journey in a planetarium.

Direction, Performance: Saiko Kino
Planetalium film coordinator: Katsuyuki Miyabe
Sound Design: Noriaki Koda
Program Design: Souki Kitakaze (Young Soul)
Production planning: KINOKONOKIKAKU
Production cooperation: NPO Dance Archive Network
In collaboration with Minato Science Museum, FOUR-DIMENSIONAL DIGITAL UNIVERSE PROJECT, NAOJ

Dance New Air 2021HP:https://dancenewair.tokyo/2020/saiko-kino/

Interview:https://dancenewair.tokyo/2020/interview04/




写真:ユーリア・スコーゴレワ


ダンスハ體育ナリ?シリーズはプログラムが冊子になっていて、今回も25000字を超える。(参考文献リストを載せる)ここでは終わりにを転載しておくが、興味のある人は手にとっていただけると嬉しい。


8. 終わりに(2021年8月22日・2021年11月5日)


2021年8月22日 福島県双葉


本当だったら4回目の緊急事態宣言が明けるはずだったこの日、しかしそうそうに延長が決まり、目処が立たない。全国での感染者数は22000人を超え、東京だけでも5000人を超える日が続いている。そして検査の数を減らしているせいか陽性率は非常に高くなっている。医療関係者の声は必死だ。でも、それが政治に届いていない気がする。

平和の祭典であるオリンピック、パラリンピックは日本の普通の医療体制の限界を超えて開催するらしい。子供たちの観戦も含めて。通常の学校の授業再開ですら危うい状況の中、命をかけて行うことだろうか。

当たり前のことが当たり前ではなくなってしまったのはいつからだろう。そんなことを思いながら福島の双葉にやってきた。つい3月まで帰宅困難地域であったものの、駅周辺は解除となり、ある意味福島からの復興のために「造られようとしている街」である。

駅から東日本大震災伝承館・原子力災害伝承館、その横の復興祈念公園、産業交流センターまで歩いて30分ほど。きれいな道ができており、しかし通る車も人も少ない。

周辺の家々は荒れ果てたまま。10年前から時が止まったままになっている中、真新しい建物が見えてくる。

オリンピックの聖火リレーが通るために、間に合わせるかの如く用意された「復興」と、全く10年前から変わっておらず、置き去りにされたこの土地と、その両方を如実に表している。町のシンボルとなっていた原子力スローガンの看板は建物の裏にひっそりと置かれていた。原子力の怖さを一番よく知る人たちがここで少しでもと口伝するが、その人たちもまたこの土地では暮らせず、隣町からやってくる。

通りかかった放射能測定器の値は1.23μSv/h。20m離れた先は除染した土などを埋める中間貯蔵施設のエリアで入れなかったりするような場所なので当たり前と言えば当たり前だが、ここではそれが10年続いており、日常と化している。その土地の人の話を聞くと、当たり前ではない日常を送っている自分たちのことが、他の地域や世界に忘れ去られていくような不安を感じているようだった。

街はきれいになるかもしれない。でもそれは表向きをきれいにしただけで、何もなくなっていない。デブリも汚染水も何も解決していない。大量の汚染土もとりあえず「中間貯蔵として」埋めるけれどでも、その後どこへと言うのは決まっていない。この街の人は誰も責めることができず、そしていなくなった。

復興が表向きのきれいさを指すのであれば10年でここまで変わりましたと言えるかもしれない。しかし、人のつながりを失い、暮らしを失った人たちが戻ってくるのは難しいだろう。あくまで、土木系のインフラのための仕事としてくる人が来るだけで、それだけのことだ。

この状況を抱えて10年が経過し、そして全く関係のないところでオリンピックという祝祭は続いている。祝うの前に、まず、この現状をみよう。この国はそんなに浮かれている暇はない。この土地の人々に謝ろう。突然に非日常が日常となってしまったことをちゃんと受け止めるところから始めなければいけないのではないだろうか。


この国の政治の形は責任を取らない。なので、適当にすり抜けて逃げ切るということが当たり前に行われてきた。お金の問題だけではなく、安全に生きるという生存権すら危うくなってきている中、ちゃんと物事を見る目を持てるようになりたいと私はやはり考えている。


一方で、そういう難しいことは置いておいて、感覚で生きるそんな世代が生まれているという事も感じる。大きい力にとりあえず寄り添っておいた方が楽だと考える流れが確実にある。そんな当たり前を疑うところが学問の始まりであるにもかかわらず。




2021年11月5日 東京都港区


プログラムの写真及び終演時の映像は360度カメラを用いて双葉町東日本大震災伝承館の傍らで823日の出の時刻に撮影したものを選ぶことにした。生憎の雨で、水滴が涙のように映り込んでしまった。私たちがああだ、こうだと努力をしても、いつの日か世界は無に帰す。真っ暗闇に突入していくその中で、それでもまた新しい星が生まれていくものだということを信じずにはいられない。




なお、レビューがウェブにて紹介されました。

タイトルが気になって、木野彩子のレクチャーパフォーマンス『ダンスハ體育ナリ?』 其ノ三を観にいく。ダンスが体育に組み込まれたところから始まって、彼女のレクチャーは前回の東京オリンピックや大阪万国博、今回の東京オリンピック、パラリ ンピックと続いていくのだが、実際に鳥取大学で教える木野の話術やチャーミング な声の力もあって、説得力に満ち、終始頷きながら聞き入っていった。だからだろう、 後半、私たちは唐突にも、広大な宇宙への旅へと連れ出されていくのだが、それも 自然な流れとして素直に受け止めることができた。新型コロナウイルス感染症パン デミックに翻弄される私。138 億年もの時空に広がった宇宙。オンライン上には存 在し得ない、このちっぽけな、しかし確かに実在する私という身体。今、目の前で 踊リ始める木野彩子という身体。思わず、自分の肩をまさぐってしまった。 毎年、こんなふうに新しい風を送り込んでくる Dance New Air という試みに、 この夜、私は深く感謝した。

芦沢 高志 / アートディレクター、都市・地域計画家

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多角的な視点から、ダンス、オリンピック、身体、宇宙、生と死を、ユーモア交え つつ豊富な映像資料でレクチャーしているところからするっと抜けて踊り出す木野さんは、観客を自然に論理と想像の世界を行ったり来たりさせる。 プラネタリウムに投影される星が溢れる果てしない宇宙と、何もない地平線で踊る 彼女の細い肢体の対比に、宮沢賢治の ” まづもろともにかがやく宇宙の微塵となり て 無方の空にちらばらう ” の言葉が巡り、私達は地球上にいる多様な生物の一つ にしか過ぎず、素粒子に戻れば全ては同じもので、互いに影響を与え合ってこの宇 宙を成していることを愛しく感じさせてくれました。

湯浅 永麻 / 振付家・ダンサー