2022年3月5日土曜日

こぶし館の光とともに在るということ20220228

2022年2月28日及び3月1日にこぶし館の定点観測会を行いました。その際に配布した文章です。

なおこの日使用した図書は「今日のアニミズム」(奥野克己、清水高志著、2021、以文社)「花の知恵」(モーリスメーテルリンク著、1992、工作社)、「フロー体験 喜びの現象学」(M.チクセントミハイ、1996、世界思想社)、「ユリイカ 2022年2月号特集田中泯」(2022、青土社)。それぞれ鳥取の本屋定有堂と汽水空港で購入したものです。いつもお世話になっています。なお、定有堂さんで私が「スペース」の古本を20円で発見し、同僚に話したことが「スペースの会」ができるきっかけになりました。したがって、昨年より続くこのこぶし館パフォーマンスの会の種子となりました。


こぶし館とは

鳥取の医師徳永進氏の私邸。1989年設立。設計者は生田昭夫氏。施工は池田善行氏。木谷清人『鳥取建築ノート』(富士書店、1991によれば①強度のハンセン病の人たちを温かく迎え入れられるように②お茶の水の「山の上ホテル(W.M.ヴォーリーズ設計)」のように③安心して死ねるような部屋を。さらに戦前谷崎潤一郎ら多くの作家芸術家の止宿した「本郷菊富士ホテル」のような感じを設計の際に求めたという。一年半にも及ぶ工期ののち作られたこだわりの建築として紹介されている。鳥取の私設文化施設として多くの著名人が訪れ、また地域住民の文化交流の場として使用されてきた。現在、こぶし館は訪れる人もなく、ひっそりと佇んでいる。毎年4月初旬のこぶしの花の咲く頃、野の花診療所の関係者が集い年度はじめの会があるものの、イベントはごくまれにしか開催されていない。

 

こぶし館3つの光(2021.02.28)とは

2021228(日)に開催されたインスタレーションパフォーマンスである。映像作家波田野州平、照明家三浦あさ子とのコラボレーション作品で、それぞれ「こぶし館の光の跡を撮る」(波田野州平)、「こぶし館の光とともに在る」(木野彩子)「こぶし館の光に時を視る」(三浦あさ子)と銘打ち、作品を制作した。

波田野氏はこのためにこぶし館を舞台に撮影・制作した短編作品『光跡』を観客が帰宅後に見返すことができるように設定した。(ただし、当日限定の公開で、現在は見ることができない。)波田野氏は机や床に残された傷に着目し、その場所に残る痕跡を意識的に遺していた。

木野は「昼の光」として11:3012:30ごろに動きがほぼ固定された形で、「たそがれの光」として15:00-18:30ごろまで動きを固定しないものの継続した形で、パフォーマンスを行なった。チラシには「建物の傷、床の軋み、鳥の声、普段聴こえていない音を聴いてみる、普段見逃してしまう、みえていないものをみようとする試みです。踊りとは本来自然のエネルギーや様々な想いを感じとり、受け取るものだったように思うのです。長いこと誰かを待ち続けてきたこぶし館。私もこぶし館のようにともにただあるところからはじめてみたいと思います。」ヴァレリーの詩をベースに作成した。三浦氏はこれらの作品を見、そして現在も定点観測を続けながら現在も制作を続けている。なお、観客はそれぞれの意思で会場に滞在し、時を過ごした。終演後「こぶし館で何をみましたか」を書いていただいた。それを元にここに顕われ出る何ものかを考察し、次のパフォーマンスへとつないでいくものとした。

こぶし館についてのこの2年継続した木野のリサーチは20223月発行の『街を見る方法―『まちの本スペース』とその時代』(小取舎)に原稿としてまとめることとした。


ごあいさつ

昨年から今年にかけて2度の脳梗塞を経験し、一度右腕と顔の麻痺を経験しました。持ち前の身体感覚で軽度で済み、(医者にも驚かれました)どんな人もいつか亡くなるが、そう簡単に人は死ねないということを学習しました。ぼーっと病室の窓を見つめながら、それぞれの人に寿命があるように、人間の意思で触れたり変えることことはできないのだと実感した3ヶ月でした。昨年1年、日に日に太陽の軌道は変わり、天気が変わり、何度となくリハーサルを行いながら同じ時は2度とこなかったように、時間は流れ続けており、今という時間は2度ときません。しかし、この建物はその後も残るのだということも実感しました。

私の構成物である細胞は3ヶ月もすれば入れ替わってしまいます。赤血球も骨も。一度死んでしまった脳細胞はお星様のように欠落したまま(MRIでは白く映し出される)で、機能としては周りの細胞がカバーするものの、細胞自体は戻ることはありません。おそらくこれから歳を重ねるごとに徐々にできないことが増えていくわけで、この私の身体の劣化とこの建物の傷やヒビは似たようなものです。建物はあり続けますが、一方私はいつか消えゆくことができます。

いつの日か土や空気や水の粒子となることを夢見てこぶし館に身体を溶け込ます稽古をはじめました。

元々舞踊の稽古はいかに自分をなくし、神々あるいは自然からのエネルギーを受け入れるかというものです。世間一般でダンスは自己表現と思われていますが、むしろダンスの訓練では逆の作業をしていきます。多くの舞踊の技術は規律化を図ることで無個性化を目指してもいます。技術力は必ずしも必要ではなく、儀式のように小さな動きであっても自己の存在が消えるほど集中ができれば良い。没我、入我我入と仏教の言葉では言いますが、それはむしろ建物(あるいはそこにあるもの、樹木などの自然、人)を受け入れるための作業です。生き物ではない物質もまた僅かながらエネルギーを発しており、そこにチューニングを合わせていく。その過集中を起こすのが舞踊家の仕事であり、ブラックホールのように磁場を狂わせていくような作業であったりします。時空のはざまのようなもので、見て、楽しい、面白いものとは限らないし、むしろ恐怖を伴うものであり、私はその深淵を見続けています。そしてそれは師(あるいは振付家)から引き継がれた(引継ぎたかったというわけではなく、ある時特殊な体験として受け取らざるを得なかった)ものであるのです。結果的に踊らねばならなくなり、だから(技術もないまま)今も踊り続けています。つまり世間一般で考えられているダンスと私が考えているダンスは異なるものであり、授業で取り扱うダンス、舞踊文化と自身の見ているものも異なり、また私は人にそれを伝えることもできないということです。

私の身体の使い方もまた特殊で、友人のダンサーが真似をしたところ、歩くこともできない状況になりました。すべての人がそうではないものの、教える際にはすべての人に安全であるよう最大公約数的なものをと捉えています。また、私のような動き方がいいのかといえばそうでもないということもわかるので、できるだけ自分の身体から可動域を広げ、自分の身体言語を作るようにと促します。結果として即興性を重視し、ゲームのように遊びながら身体をまずは動かすことになります。学生は子供の遊びと思うようですが、子供たちほど自由に動けていない自分たちになかなか気がつけていません。普段の生活で失ってしまった身体感覚を取り戻すことが第1であり、テクニックとして習得するものはあくまで体操のようなものにすぎません。鳥取に来てから基本的に学生の前で踊るのは2018年『死者の書 再読』と2020年『Oil,Water, and Woman』、そしてこの2021年『こぶし館3つの光』のみですが、「先生のいうダンスは私たちのダンスではないので、言い方変えてください」と言われたりして落ち込んだりしています。

今回改めて自分のタイムリミットを考え、現状の身体感覚とこの鳥取での作品解説を残しておくことにしました。ここから先は11年が最後になりうる。実際に老化もありえますが、リアルに自分で自分の死を望むところまできました。(自殺願望ではなく、脳梗塞は自身の念のようなものでコントロールできる感じがあります。)今回は今年も1年大丈夫でしたという自分へのご褒美の会にすることにしました。

今回、コロナ下ではありますが、稽古という形を取ったとしても開催したのはこのような経緯がありました。毎年今後も最も美しい光のはいる冬のこの時期に(春のこぶしの時期も捨てがたいのですけれど)開いていくことができたら嬉しく思います。ごゆっくりお過ごしください。