2020年
ある日真っ暗闇をみせられた。いや、そんなことないです、何かできることはあるはずですと言って私は鳥取までやってきて、できる限りのことをした。しかし世の中は変わらないことを知った。夏至祭も銀河鉄道祭もかなりの規模で私自身のことをすべて捨て置いて動いて努力はしたが、結局、この世の中の人は「変わりたくない」。
お金が動くか動かないかの中で動いている人たちの中にいてそもそも芸術とは何かと考えた。
芸術とはそもそもせざるを得ないエネルギーであったはずだが、「文化」や「アート」と名づけられ、社会の役に立つものでなければできなくなってしまった。私の作品を見続けている人ならわかると思う。ダンスが音楽に合わせて行う体操運動になってしまい、集団による統一感を求めるものになっている現状。面白いか面白くないかで判断される状況。それならディズニーのようなエンターテイメント1個あればいいよね。(その典型が鬼滅の刃ブームに現れているように感じる)多様なあり方を求める姿勢はどこにいったのだろう。
「ほんたうのさいわい」は人により異なるので、やりたい、したいを否定することはできないし、それはそれでできるように応援していく。しかしメディアや教育の影響が大きく感じられるし、この年代で私がいくら言ったところで伝わらないし、理解できないことが残念だと思う。そしてこの社会を生き抜く上で私のような考え方が逆行していることも感じている。
逆にいうと全てを変えるには教育から考え直さない限り無理だろうなという気がしている。
最近思うのは、この人たちはわからないんだなということだった。
石牟礼道子さんは「日本も行くところまで行かないと、目が覚めないのかもしれない。それで復活できないのなら、それだけのものでしかなかったということだろう、と思わなくもない。でも、やはりそうなってほしくない、と祈るような気持ちはございます。」という。(田中優子による指摘、『倫理観や指摘はどこに』より)
小学生の頃からうっすら感じていたけれど大人になったらわかるのだろうと思っていたが、阪神大震災、東日本大震災、福島と多くの災害を受けそれでも目覚めない日本をみながら、そして実は近い距離にあった政治の世界を見ながら、あるいは世界全体を見ながら、コロナも含め人は滅びるべきだという自然からの声なのではないかと最近は改めて思う。
移動ができなくなって、観光業、運送業が厳しい状況になっているのはわかっているが、空気は確実に澄んだ。鳥の声がちゃんと聞こえるようになった。鳥取はもともと自然豊かな土地ではあったが、それでも明確な差を感じる。首都圏はより一層だと思われる。
人が自然に対し行っていることはアメリカが先住民に対し行ったことににて、日本がアイヌに対し行ったことににて、勝手に勢力を広げ掠奪することに過ぎないのではないか。
また、基地問題や原発や風力発電なども小さなお金で将来的なすべての負担を負わせる掠奪に近い状態と言えないか。そうしないと私たちは生きていくことができないのだろうか。
この世の中には知らない方がいいこともある。
悲しいけれど、知らなければ、その世界でそれなりに幸せを追い求めることができる。エルサレムのアイヒマンの問題はそんなに遠いことではないと私は感じている。1940年のオリンピック、1964年のオリンピック、1972年のオリンピックについて学んできた。現代史をあまりにも知らない学生(観客)に驚く。オリンピックの闇以上に、開発という名の破壊を、そして拡大を求めるが故に起きた戦争やテロ、それらがなぜ起きるのか、その闇をみる必要はないのかもしれない。でも、それでいいのだろうか。
真っ暗闇は変わっておらず、さらに悪化している。正しくはその時はそこまでと思っていなかったところまで落ち込んでいる。ただただ走れと言われて走るけれど、この世を変えるどころか、大切な人を壊していくだけだという。しばらく大きな舞台はお休みです。