今回それぞれがそれぞれにテキスト等を用意しています。
昼の光とたそがれの光は内容が異なり、前者はほぼ行う内容、時間軸、空間の移動経路がフィックスしています。たそがれの光はその部分を膨らませながら、拡張させていて、全ては自らの身体が暗闇に溶け込んでいくその時に向かっての伏線のように張り巡らされています。全てを見れた人は写真の田中さんくらいですが、全てを見たらそれはそれで面白い。
緩やかにその場所でしかできない、その場所のためのパフォーマンス。そしてパフォーマンスがあることでその場所のヒカリや空気、音に気がつくようなインスタレーションとしてのパフォーマンスです。
この手、わたしの顔に触れようと夢みながら、ぼんやりと、何か深い目的にでも従っているのか、この手は待っている、わたしの弱さから涙がひとしずく溶けて流れるのを。
そしてまた、わたしの運命からゆっくりと分かれ出てきた、もっとも純粋なものが敗れた心を黙々と照らし出してくれるのを。手のひらに影を移してみる。触れようとしても影そのものには触れることはできない。
ヴァレリー
昼の光
ある晴れた日
手のひらに影を移してみる。触れようとしても影そのものには触れることはできない。
ヒカリのシカクを薬指でなぞってみる。
床に耳をつけてなぞる音を聞いてみる。
マドのシカクをなぞってみる。
射し込む光は暖かい。
鳥の声が聞こえる。2週間前は鳥たちもいなかったのに、もう春らしい。
窓の外はあんなにも自由なのに。
息をすることすら忘れていた。言葉にならない声が溢れる。
この部屋は美しい。
時々刻々と時が流れ、ヒカリのシカクも移動していく。私も立ち上がらなければならない。
白い壁はひんやり、つるりとしている。
私の身体に影を移してみる。しかし光がぼやけてしまい像に結びつかない。2重に3重にいる彼方は誰。
30年の間にできた小さな傷を薬指で撫でていく。指先の触感で見なくても辿ることができる。そしてその音をきいてみる。
壁に、床にある傷やしみは一つ一つがそこにいた人の記憶。
この部屋は小さな音で溢れている。
丸い星はなぜ一つだけ銀色なのだろう。小さく小さく揺れている。私もまた星の一つとして揺れている。
その飴玉のように甘い毒は私が預かりましょう。
誰もいない食卓はそのままあり続けていた。傷を辿っていくとヒカリのシカクにたどり着く。シカクを薬指でなぞってみる。
崩れ落ちる。左肩だけがほんのり暖かい。
ふるさとはとおきにありておもうもの
「おかあさーん」[1]という声が聞こえる。猫のように小さく丸く収まろうとするがはみ出てしまう現実。
束の間の休息、大いなる正午。
射し込む光の方へ手を差し伸ばす。目覚めたら手の指がなくなっていた。なぜ私が。誰にでも、いつでも起こり得た。そういうことだった。
ヒカリのシカクをこぶしでなぞるが、怒りにもならない。
誰もいない食卓に一人残され、じっと手を見る。
そんなことはなかった。そう信じたい。指があるのであればせめて祈りましょう。窓の外では鳥が鳴き、雲が流れる。「小さな空」[2]を想起させる。
ここには誰もいない。そしてこないだろう彼方を待ち続けている。かれこれ30年。建物の小さなつぶやきは傷の中に、しみの中に積もり重なっていく。
おどりとは本来そのような記憶や想いを自身の中に受け取って、あらわれ出させるものでありました。ある種のメディウム(メディアの複数形、巫女)であり、それは特殊な技能ではなく、すべての人が持っていたものでした。丁寧に物事をみること、ふれること、きくこと、それを促すためのインスタレーション・パフォーマンスです。
[1] ハンセン病フォーラム(2019)に合わせて行われたアンケートに基づく。会場内の椅子の上にその際の記録集を置いておきます。
[2] 武満徹作詞・作曲
たそがれの光
ある晴れた日
2時を過ぎるとヒカリは弱くなっていく。手のひらをヒカリにかざすが、時々刻々と弱まっていくのを感じる。手のひらと手の甲。表と裏で感じ方が違う。どちらが表か、どちらが裏か。
右腕で左肩に触れる。うっすら影に入ってしまっていて少し冷たい。引っ張り寄せて暖かい場所へ連れて行こうとする。そのような無理をしても、もう左肩は戻ることはない。肩も腕も物質であったのだということに気がつく。
白い壁はひんやり、つるりとしている。
私の身体に影を移してみる。しかし光がぼやけてしまい像に結びつかない。2重に3重にいる彼方は誰。
30年の間にできた小さな傷を撫でていく。指先の触感で見なくても辿ることができる。そしてその音を聞いてみる。
壁に、床に一つ一つがそこにいた人の記憶。
この部屋は小さな音で溢れている。
窓を開ける。
鳥の声が聞こえる。2週間前は鳥たちもいなかったのに、もう春か。
窓の外はあんなにも自由なのに。
息をすることすら忘れていた。言葉にならない声が溢れる。
あたたかさを求めて移動する。ベンチにちょこんと腰掛け、温まろうとするが、眩し過ぎるヒカリにやられてしまう。直接みたり触れようとしてもできない。私には寄り添うことしかできない。
ヒカリのシカクを薬指でなぞってみる。
壁に耳をつけてなぞる音を聞いてみる。
マドのシカクを薬指でなぞってみる。
射し込む光は暖かく、手だけでもそれに触れようとする。
机の傷を薬指でなぞってみる。
机に耳をつけてなぞる音を聞いてみる。
手のひらをみる。じっとみる。手のひらと手の甲。感じ方が違う。
机の傷を辿りながら誰もいない食卓を回っていく。思いがけず「いない人」に出会うことがある。そこでいないことにするのか、認めるのかはその人に委ねられる。
机の傷に導かれていく。ヒカリのシカクの傍に横たわり、あたたかいヒカリを手に受ける。それをぎゅっと握りしめる。
空には一面のお星さま。なぜ一つだけ銀色なのだろう。小さく小さく揺れている。私もまた星の一つとして揺れている。
射し込む光の方へ手を差し伸ばす。目覚めたら手の指がなくなっていた。なぜ私が。誰にでも、いつでも起こり得た。そういうことだった。
誰もいない食卓に一人残され、じっと手を見る。
そんなことはなかった。そう信じたい。指があるのであればせめて祈りましょう。窓の外では鳥が鳴き、雲が流れる。
ここには誰もいない。そしてこないだろう彼方を待ち続けている。かれこれ30年。建物の小さなつぶやきは傷の中に、しみの中に積もり重なっていく。
この部屋は美しい。
時々刻々と時が流れ、ヒカリのシカクも移動していく。私も立ち上がらなければならない。その飴玉のように甘い毒は私が預かりましょう。
耳をふさぐ。ザーッと血流の流れる音が聞こえる。指関節が動くとその軋みが聞こえる。建物だけではなく私自身の中もまた傷やしみを多く抱えていて身体の中には小さな音が溢れている。
17:57、日の入りののち、私も彼方も闇の中に溶け始める。この壁にうつしだされた影もまた徐々に薄くなり、私との境目をなくしていく。影に触れることはできないが、影と共にあることはできる。「わたし」という存在を消失させていくことによって、影を移し出そうと試みる。いや、影を移し出すのではなく、私が影にのまれ溶け込むだけだ。
たそがれとは誰そ彼、私が私ではなくなり、彼方が彼方ではなくなる、その瞬間を指す言葉である。
おどりとは本来そのような記憶や想いを自身の中に受け取って、あらわれ出させるものでありました。ある種のメディウム(メディアの複数形、巫女の意味も含有している)であり、それは特殊な技能ではなく、すべての人が持っていたものでした。近年、「自己表現」や「自己実現」が求められますが、舞踊はもともと視野を転換させながら、自己を消失していく行為であり、ゆるやかで穏やかな自殺のようなものと考えられます。土方巽が「舞踏とは命がけで突っ立っている死体である」という言葉を残したように。
丁寧に物事をみること、ふれること、きくこと、それを促すためのインスタレーション・パフォーマンスです。