2020年1月1日水曜日

2019年”永久の未完成これ完成である。”

永久の未完成これ完成である。

鳥取銀河鉄道祭イヤーを終了し、(今もドキュメントは作っているけれども)これからどこへ向かうのかまたゼロからやり直し。
宮沢賢治はその多くの著作を書き続け、改稿し続けた人でもある。そして未定稿のまま死んでいっている。あの銀河鉄道も最終形第4稿まで数えられているが、それすらも未定稿であり、もしかしたら賢治の意図ではないお話になっているかもしれない。
彼の中で完成ということはなく、完成しないことを目指していた。
一生涯を通じて自分のあり方を考え続けていた賢治。

今福龍太は「宮沢賢治 デクノボーの叡智」(2019)の中で(p330ー)賢治の「第3芸術」という詩を取り上げて、「芸術のための芸術」「人生のための芸術」の次に来るテーゼ「芸術としての人生」について指摘します。農民芸術概論は農民もレクリエーションとして芸術に携わるべきだという風に誤解されてしまうが、芸術とはその人の生き方が現れるものであり、その生活はそのまま美しいものである。「すべての農業労働を冷たく透明な解析によってその藍いろの影といっしょに舞踊の範囲に高めよ」(生徒諸君に寄せる、1927)ともいう。つまり民俗芸能や神楽を超えてその暮らしそのものへの見方を指摘する。その考え方は柳宗悦の民芸の考え方に通じる。(ただし現在の民芸は作家性がかなり打ち出されており、当時の用の美とはまた異なる芸術性を持っている)

その上で、しかし教員を辞め、羅須知人協会などを作り、農民の暮らしとともにあろうとした賢治の生活は当の農民たちには理解されず、数年で破綻をきたしてしまう。それでも理想を追おうとした。ある意味坊ちゃんなところもあり、しかしそのデクノボーさゆえにみえた美しき世界の形が作品として表されている。その生き方。
様々なものを得ることができなかった賢治は何を見ていたのだろうか。
もう一つの世界を見つめ、問いかけ続けてきた賢治と対話をしながら、私は自分が見てしまったものを問いかけ続けている。

舞踊もまた、その人の生き方が問われてきた。生き方が現れるのだから仕方ない。(逆にいうとそうではない作品も増えていて、私は個人的に残念に思う)不器用なので私もまたデクノボーのように生きるのだろう。あと何年かはわからない。ただ今ここにある以上、宇宙に散らばる一つの星(光る星ばかりとは限らないが)のように命を燃やし続けていくのだと思う。約束なので。

この世の中はやっぱり真っ暗に沈んでいくけれども、それでも。

われらの前途は輝きながら嶮峻である
嶮峻のその度ごとに四次芸術は巨大と深さとを加へる
詩人は苦痛をも享楽する
永久の未完成これ完成である

理解を了へばわれらは斯る論をも棄つる
畢竟ここにはきのさいこ2019年のその考があるのみである