2019年12月31日火曜日

ダンスハ體育ナリ?建国体操を踊ってみた早稲田どらま館バージョン

ダンスハ體育ナリ?建国体操を踊ってみた早稲田どらま館バージョン無事終了しました。
https://www.waseda.jp/culture/dramakan/news/1135


このレクチャーパフォーマンスは鳥取大学の授業グローバル時代の国家と社会で取り扱った内容から生まれたものです。参院選もあったことだし、早稲田だし、そして最後に来たあいちトリエンナーレの表現の自由問題。このご時世なのでどこまで改定が入れられるか色々迷いましたがとにかくまとめてみました。


今回建国体操@早稲田編では早稲田周辺についてもリサーチしました。現在鳥取にいることもあり、水谷先生(今回の「憲法と身体」企画者)が知る早稲田色々が織り交ぜられ、これまでとは少し異なるバージョンになっています。ダン体はプログラムをちょっと頑張って作っているのですが、今回はさらに早稲田版補助資料も用意していただきました。ちょっと嬉しい。
ただ実は早稲田については大学時代に毎週のように健康栄養研究所に通って実験をしていた時代があり、気にしていたところだったんです。2017年にも戸山教会などの写真を撮りに行っていました。
(ちなみにその当時お世話になっていた田畑先生はその後筋トレプログラム田畑プロトコルを開発し、有名になっていて驚く。きっと私のデータも使われているに違いない)
そんな演劇とスポーツの聖地で上演できたのはとてもいい機会でした。
また、今回いしいみちこ先生(追手門高校)や萩原さん(かもめマシーン)など様々な人に出会うことができ、ありがたいことだと思います。
そしてこのどらま館があり、演劇人を育てていくことで、ネットワークが作られているのが見えてきました。実は現在は大学施設なのですが、大学の枠を超えてできることを模索していくことが大事だなと思った次第です。宮崎さん、ありがとうございました!

今回のプログラムは5月12日版を元に直しました。そして早稲田バージョンの話(早稲田大水谷先生がまとめてくださいました)を追加しています。
また膨大な資料となってしまうので、ここでは最後のごあいさつだけ。
このごあいさつも別添追加資料として入れました。

17.終わりに(2019810日)
 其ノ一から3年、其ノ二から1年、こんなにも時代の変化が早く、そして偏った形で進行していることを不安に感じる。様々な公文書の書き換えが明らかになり、民衆の声や支持率とは真逆の方向に政治も経済も進んでいく現実。メディアもどこまで信用できるのか、操作されているのではないかと考えさせられるような事例が多数起きていく。スポーツや文部科学省で明らかになったパワハラや汚職は確かにいけないことだけれども、おそらくこれは氷山の一角で、弱いところだから突かれて明らかになっているだけに過ぎないと皆見切っている。私たちは一体何を信じたら良いのだろうか。
 あいちトリエンナーレで起きた『表現の不自由展―その後』の展示中止はそのままこの国の表現の不自由さを露呈することとなった。脅迫とも取れる多数のファックス、メール、電話を受けて、安全面の配慮により展示が中止に追い込まれたとされているが、政治的介入とも懸念される事態が起きている。公の秩序とはなんであるのか。時の政治や経済で力を持つものに従うものしか許さない、そんな国にいつからなってしまったのだろう。
 一昨年から鳥取にて鳥取夏至祭というお祭りを始めた。街中で即興音楽やダンスのパフォーマンスを展開する。周辺地域にはご挨拶周りに伺うが、面白そうだねえと喜んでもらう。この企画も元々は横浜赤レンガ倉庫前の広場でダンサーたちの交流のために踊っていたことから始まったものだった(ダンコレおそとダンス)。数年続いたものの残念ながら「何が起こるか誰が参加するかわからないものには場所を貸せない、作品じゃないと困ります」と断られるようになったので、鳥取に来て拡大して自分で開くようにした。いつから公園も道路も許可申請を出し、警備を配さなければいけなくなったのだろう。いつからヘブンアーティストに認定されないと大道芸すら行うことができなくなったのだろう。芸能者は本来河原乞食であったのに、どれだけえらいスターになったのだろうと私は疑問に思った。
 はじめは小さなことだった。その時私はなんでですか?と聞き返せなかった。でも、小さくても小さいなりに声をあげなければ、全ては大きな流れに飲み込まれ、初めからなかったことにされてしまうということだと今はわかる。鳥取はまだ大丈夫、でも来年は、再来年はどうなっているだろうか。昨年のこの作品を見た西田留美可(Real Tokyoレビュー)はこういう。「ダンスは戦時中に禁止されるが、体操は重用されていく。管理しやすい体操に反して、ダンスの自由な精神や個人主義的な方向性が嫌われるのだろう。現代は、戦時下とはまた違う形でかつてないほどの管理社会になってきている。ダンスは歴史的な理由で体育の範疇に入れられてきたが、それは管理し制御しやすくする利点もあったかもしれない。ダンスが時代のカナリヤ的な存在であってはならないだろう。」ダンサーは元々巫女のようなもので、ある種時代とともに歩んできた。今自分が当たり前に行っている一つ一つのことができなくなる時が来るかもしれない、そんな危機感を常に抱いている。
 学生さんと話してみるととてもいい子たちで、心も優しい。家族を大切にし、仲間を守る。ダンスによって養われた団結力が見て取れる。それはそれで幸せなことかもしれない。でも誰かを守れば誰かを排除することにつながる。だから戦争は無くならない。ナチスドイツを支えたのも、731部隊も皆普通の人であり、普通の生活を、そして家族を守ろうとしていただけに過ぎないことがわかる。知らなかったと彼らは一概に言う。知っていても見ていなかったのかもしれない。そういう人間の弱さは確実にあって、それゆえ戦争も争いもなくならない。
 一人一人がちゃんと自分の目で確かめ、自分の言葉で話すようになること。おかしいと思った時に流されずにちゃんと立ち止まる勇気を持つこと、それは私自身の課題でもある。其ノ二のラストシーン、初演時はサイレンで慌てて逃げ出し、再演時はサイレンの中それでも踊り続けると変更しました。3回目は加担するくらいなら死んだ方がマシだと思いました。さて4回目はどうしましょうか。あなたならどうしますか。