2016年9月12日月曜日
ダンスハ體育ナリ
先日のダン體記事が出ています。公明新聞2016.3.23
なぜかメキシコの演劇専門誌にも載せていただきました。(スペイン語です。写真も載っているけれど、どうも許可も取らずにこの記事を書いた人が勝手に撮ったものと思われるという疑惑つき)
補足
ダンスハ體育ナリ は実際に見てもらうとわかるのだが2重に意味を含んでいる。
ここで私が投げかけた問いは
ダンスと体操の違いとは何か?
と
芸術とは何か?
舞台芸術を教育で伝えることはできるのか?
ということであり、
結構重要なそして微妙に避けられてきた問題でもあると思う。
少なくとも私はアカデミックな教育の枠に入ることができなかったし、それは大きなコンプレックスとなった。しかしそれゆえに外からそれを見つめることができた。辺縁からしか新しいものは生まれない。わかってはいても、そして他にどれだけ認められても、いつまでもそれは残り続けていて無意識に戦っていたのだと思う。ここ6年くらいの帰国してきてからのシリーズは全て自身の経験と生き方を既存の場所などになぞらえながら作品にしてきていたが、今回の作品はまさしくその集大成的なものだと思う(しかし時間が経つとまた新たな経験が増えていくのだろう)。
修士論文と同様に私の作品は当事者研究に近く、しかしそれが普遍性を持ちうるという確信のもと作られてきた。特に今回の修論、ダン体は、歴史を踏まえ、ますますそう思うに至る。運命の輪というか巡り合わせのようなものがピタリと合さる瞬間があり、その時に出会ってしまった人が形にするしかない。作品作りとはそういうものだと私は思う。
気がついちゃったり、引っかかってしまった人はどうにかするしかない。私はちょっと人より引っかかりやすい人だったということに過ぎない。
実は自分のことを話しながら、しかし多くの人が共有しうることだけを扱っている。それは私の作家の部分だ。自分の存在を消しているからこそのこと。それに私は昨年のEn attendantとフィボナッチで気がついた。しかし静(白)の時には既にそれは始まっていたということをBankARTで踊りながら思い出した。
舞踊は空間を超え、演劇は時間を超えることができるという言葉を思い出す。
同じものを再現することはできないが、しかしその人が生きている間においては可能であり、残らないからこそ、人はいとおしく思う。ちょっと時間かかっちゃったけれど、この作品を作ることができてよかったと心から思う。20年は少なくともこの作品にとっては無駄ではなかったということだ。